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STAP細胞の懐疑点PART976 [無断転載禁止]©2ch.net

351 :名無しゲノムのクローンさん:2016/05/04(水) 12:25:46.07 ID:LXy1ccPA0
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『「社会的事象の認識」とは、認識者がその事象を「評価/価値判断すること」に他ならないのだが、そのためには認識者が何らかの人間界/社会に対する
「主観的価値観および認識者自身のための処世観念」を持っている必要があるために、社会的事象の認識ということに関しては、認識者は必然的に
「(自然科学的な)客観性」というものから、ある程度、遠ざからざるを得ない。』

という存在拘束性にまつわる問題なのである。これこそが、オレが己の学究を
“自然科学的に判然化”たらしめようとする際に、留意/注意すべき肝(キモ)だと言える。すなわち

『(上記命題の如く存在拘束性に囚われた評価性を多分に伴う)社会科学の論説とは、所詮は論者が社会に対して抱く「関心/注意」に対する
「誠心誠意の主観的説明」以上のものには成り得ないのだから、論者が自らの存在拘束性を十分に認識し、客観性の保持に多大なる注意を払った上で
論説しないならば、大凡、“科学”などと呼び得るかどうかさえ疑わしいものとなるのである。』

さらには、読み手が提示された論文をどう捉えるのか、という問題が出てくる。すなわち所詮は“主観的説明”でしかない社会科学の論理とは、
論文読者の“主観的評価”の如何によってでしか評価され得ないもの、ということに当然のごとくなってくるからである。
だから読み手に求められるものとは、論者が保持する能力/価値観/社会的立場/人格/気質/人生歴(すなわち存在拘束性)は如何なるものか、
そしてその上で論者が最大限に客観・合理的であろうとする科学的な態度を持ってその論説を為しているか、などといった点について、
読み手自らが検証する・できることである。

というわけで「市民層 概論において、その自然科学的判然性は、如何にすれば担保されうるのか?」という問題は、真剣に考察されるべきことなのである。
当然のこととして科学においては、あらゆる命題は論証されなければならないのであるから、この問題は
「市民層 概論における論証は如何に為されれば自然科学的判然性を持ちうるのか?」という問いに置き換えても良いことになる。
(つづく)

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